特別寄稿:柴崎友香さんからの便り「写真と小説」

2020.07.07 BLOG

こんにちは、管理人のまちゅこ。です!
STAY HOME特別企画、第五弾。
芥川賞受賞作家の柴崎友香さんによる、「写真と小説」のお話しです。

ぜひ読んでみてくださいね。

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「写真と小説」

街を歩くことと、街で写真を撮ることと、街を書くことは、わたしの中ではつながっている。
 小説を読むことも、それらの行為と似ているかもしれない。
 街を歩いているあいだ、目に入る建物や人や店先のあらゆるものから、わたしはなにかを思う。思い出したり思いついたり、浮かんだなにかは、路上に漂い、そのまま別のことに気を取られて忘れてしまうこともあれば、なにかを見てまたつながることもある。
そうして気に掛かって、だがまだ言葉にはならないなにかを、つかめそうでつかめないなにかを、確かめるために、シャッターを切る。わたしが写真を撮るのは、そういう感覚に近いかもしれない。

 昨年の五月に、アイルランドに行った。
 ユーラシア大陸の東の果ての島国から、西の果ての島国へ。
 アイルランドは、人口五百万人にも満たないが、優れた作家や詩人を多数生み出している文学の土地だ。
 ダブリン文学祭に呼ばれたのだが、ダブリンといえば、まず思い浮かべるのはジェイムス・ジョイス『ダブリン市民』。
 百年以上前に書かれたこの小説は、ダブリンの片隅に生きる人々の生活を描いた短編集だが、その小説に書かれた建物や店を今でも辿って歩くことができる。
 通りはそのままだし、店や建物が残っているところも多い。この二十年ほどの経済環境の変化で建て替えられた場所も増えたとはいえ、歩けばそこかしこに小説の中の光景が重ね合わされる部分が見つけられた。
急ぎ足だと通り過ぎてしまうような場所も、よく見るとそこで生きてきた人々の人生と過去のできごとが積み重なっているのが浮かび上がってくる。
歩き回って、写真を撮ることで、わたしはよりじっくりとその場所を見つめ、そこに確かにあった時間を思う。写真を撮ろうとしているときの視線が、風景の解像度を上げてくれ、小説の中のできごとと目の前のものをつなぎ合わせていく。

 
 街を歩き、写真を撮り、小説を書く人で、とても興味を持っているのは、テジュ・コールだ。
 インスタグラムに、彼のアカウントがある。一時すべての投稿を削除していたが、しばらくまえからまた新しい写真が投稿されるようになった。なにげないようでいて説明しがたい、場所の断片をとらえた彼の写真は、謎めいていて見入ってしまう。
 ニューヨーク在住のこの作家は、わたしと同世代の1975年生まれ。
 ナイジェリアにルーツを持つ彼は、アメリカ生まれでアメリカ国籍を持っている。
 父はナイジェリア人で、母はドイツ系。幼少期を過ごしたナイジェリアにいれば「白い」と見なされ、ニューヨークでは「黒人」として扱われる。
 『オープン・シティ』は、そんな彼と近いプロフィールで、彼のようにマンハッタンの片隅で暮らす男が主人公だ(これは、彼自身を描こうとしたというよりは、読者が作家自身の話と錯覚して読むことをある種の仕掛けとしているからだと思う)。
 病院に勤務する傍ら、美術館を訪れたり、クラシック音楽やジャズに親しみ、大学時代に文学を学んだ恩師を訪ねたり、孤独ではあるが都会的な暮らしを楽しんでいるとも言える。
 小説の中で写真を撮ることが直接に描かれるわけではないが、碁盤の目になっているマンハッタンを縦横無尽に歩き回り、詳細に描かれる地理や風景は、写真家としての視線が反映されている。
 ニューヨーク、あるいは自らのルーツを確かめるように訪ねるブリュッセルで、そこかしこに埋もれている歴史と出会い、抑圧されてきた人々の声を聞き取る。先住民の虐殺や略取、人種や国のあいだの軋轢が、不意に立ち現れてくる。
 そこに、語り手自身の記憶やこれまでの人生が重なり合りあい、物語は意外な方向へ転がる。写真的に描かれた風景と、そこに隠されていた人間の不確かさが、まさに現在の複雑にこじれた世界のありさまとして、読むものに迫ってくる。

 
 テジュ・コールは、写真と文章を組み合わせた本『BLIND SPOT』も出版している。
 わたしは英語が得意ではないので、正確なところはわからないが、本は持っていて、ときどきめくって見る。
 右ページに写真が一枚あり、左ページにエッセイのような詩のような、短い文章が書かれてている。写真は、風景、あるいは、室内の一部で、人はほとんど写っていない。特に目を引くものもない、ということは、写真に撮られなければじっくりと見る人はいなかったであろう光景。そして、ほんの数枚だけ写っている人は、ほぼ後ろ姿だ。
 彼にとって、写真は、なにかを想起し、思索し、イメージを広げてゆくために重要な存在なのだ。
 そのテジュ・コールが大きな影響を受けた作家として名前を上げているのが、W・G・ゼーバルト。彼の作品も、写真と切り離せない。
 ドイツ生まれのこの作家は、二十代前半で大学の講師を務めるためにイギリスに移住して以来、そのままイギリスに暮らしたが、作品はドイツ語で書き続けた。
 五十七歳の若さで交通事故で亡くなるまで、文学論と、エッセイと小説のあいだのどちらとも読めるような文章を書き遺した。
代表作の『アウステルリッツ』は、ちょっと変わった小説である。
 どう変わっているのか、まだ読んでいない人に説明するのが難しい種類の「変わっている」だ。
 こちらもやはり作家自身を思わせる語り手が、若き日に訪れた外国で偶然出会ったアウステルリッツという男の回想や少しずつ明らかになる生い立ちを聞くという構成になっている。
アウステルリッツの話はやがて、第二次大戦の記憶と翻弄された生涯へとつながっていくのだが、アウステルリッツの語る部分と、小説の主人公が語る部分とが、重なり合い、交じり合い、曖昧になることがかえって強い印象となるような奇妙な感覚になる。
 ページにはときどき、写真が挿入される。それは本文で言及される場所や建物らしく、一見、解説のようである。しかし、よく読むと写真に写っているものと語られているものは一致しない。別のどこかなのか、それとも……。
 事実と記憶のずれ。過去と現在のずれ。語る者と聞く者とのずれ。何層ものずれの中に浮かび上がる、人間の存在。
 話されている記憶の中を、ともにさまようような体験が、写真によってより強調される。 
 ゼーバルトは、他の作品でもそのように写真を使う。しかしそれは読者を騙そうとしているのではない。むしろそのずれている写真があることが、語られるできごとの確かさを支えているようにも思えてくる。写真に写るものはなんなのか、人の記憶とはなんなのかを、フィクションの内側と外側を行ったり来たりしながら、問いかけ続けるのだ。

 
 以前、写真からあれこれを読みとって語るイベントに参加したことがある。
 たとえば国語の試験問題のように意図を推測するのではなく、なぜそこにその車があるんだろうかとか、これはどういう状況だろうかとか、あくまでも写っているものについて考える。それだけでも、人によって読み取ることは違った。
 知識があれば見えるものも違ってくるし、個人的な体験や感情が、写真があることによって、表に出てくる。
 言葉と記憶とイメージとの関係は、わたしにとって常に心を惹かれるテーマだ。普段は目に見えない人の内面を、他者が垣間見る機会になるのではないかと思っている。
写真を撮り始めたときは、マニュアルの一眼レフのカメラ、モノクロフィルムを使い、暗室で現像とプリントをしていた。
 暗室で、粒子に変換されたイメージが浮かび上がってくるとそこには必ず、自分の知らないものや風景が写っていた。
 記憶の通りではなく、見ているつもりだったものではなく、確かにそこにあったはずの瞬間。それは、何度体験しても、まるで自分が見知らぬ他人に思えるような瞬間だった。そして焼き付けられたその瞬間は、そのまま残る。流れる時間に断面を作り、ある場所と別の場所、過去とまた別の過去の時間をつなげる。
 場所と時間、そこにある人間の存在をどうにかして書きたいと思っている自分には、写真は、小説やフィクションの語ることのありようをいくらでも考えさせてくれる。
 写真の道具や形式が移り変わると、時間や場所、現実との距離の感覚も変わった。
 カラーフィルムとコンパクトカメラ、インスタントフィルム、携帯電話のカメラ、デジタルカメラのパノラマ写真……。
 数年前、写真についてのトークイベントで、聞き手を務めてくれた方が、わたしの単行本には一冊を除いて、かならずカメラや写真が書かれていると教えてくれた。それくらい、わたしの小説にとっては写真と写真を撮ることは、日常生活の一部であり、世界を見つめ、表すために欠かせないものなのだと思う。
 『その街の今は』は、自分が住む街の昔の写真を集め、過去を知ろうとする話で、『パノララ』は、デジタルカメラのパノラマ写真から他者が見ている世界との相違に気づく。
『春の庭』は、好きだった写真集に写っていた家を偶然見つけて、どうにかそこに入ろうとする人が起点になっている。写真集は、若い夫婦の幸福な生活を写していて、その姿に憧れていた彼女は、現在は別の家族が住んでいるその家や、写真集の夫婦のその後を調べるうちに、幸福な生活はほんとうではなかったのかもしれないと知るが、それでも彼女にとって幸福の象徴だったその家の中を自分の目で確かめたいという欲望を募らせる。
 この小説を書こうと思いたったのは、実際にわたしが写真集で見た家を東京で発見したからだった。一軒ではなく、複数。中には入れないのに、その家の中の光景を友人の家のように知っている。そして自分がよく知っていると思っているその光景は、写真に写された一瞬のものなのに、たとえその家がなくなっても、ずっと残り続ける(実際に、そのうちの二軒は、今はもうない)。
 あの場所とこの場所、現実と想像、過去と現在を重ね合わせながら人は生きているから、そこに写真があり、小説が生まれる。

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柴崎友香(Tomoka Shibasaki)
1973年、大阪府生まれ。『きょうのできごと』(河出文庫)で作家デビュー。『その街の今は』(新潮社)で芸術選奨文部科学大臣新人賞、織田作之助賞大賞、咲くやこの花賞を受賞。『寝ても覚めても』(河出文庫)で野間文芸新人賞、『春の庭』(文藝春秋)で芥川賞を受賞


★STAY HOME特別寄稿
第一弾:内田ユキオさんからの便り「写真と映画」はこちら 
第二弾:大和田良さんからの便り「写真集とGR」はこちら
第三弾:安達ロベルトさんからの便り「写真と水彩画」はこちら
第四弾:特別寄稿:鈴木光雄さんからの便り「お部屋でGRを撮る」はこちら

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