【コラム】「量」と写真/大和田良

2023.07.28 BLOG

こんにちは!管理人のまちゅこ。です。

写真家さんによる月一のコラム、今月より新メンバーとなります。
寄稿いただく写真家さんは、大和田良さん、木村和平さん、渡部さとるさん。
 
初回は、大和田良さんです!

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メモやスケッチを残すように、自分が反応したものを日々写している。
そこで得られた造形や線、色のイメージは、自らの視覚をより鋭く保つためのエネルギーのようなものとして蓄積されていく。
 
やがて、なんらかの作品の輪郭や細部を描くために、そのエネルギーが放出され、新たな像を結ぶ。自分を撮影に駆り立てるその衝動や何らかの感動の理由を、写真に撮ることで少しでも明らかにすること、自分が反応したものの正体を観察しようとすること。そしてそれらのイメージを自らの視覚に蓄積させること。
私にとって日々GRを持ち歩いて撮影することは、そんな作業を繰り返すことでもある。

 
そういった点で、写真には積み重ねる時間が不可欠である。森山大道氏が言うところの「量のない質はない」という言葉を思い出す。
 
私はもともと写真のセンスに乏しかったのか、考えずに撮るというということができないタイプだった。だから、とにかく沢山撮るということができなかった。学生時代はそれでずいぶん悩み、カメラを変えてみたり、フィルムを変えてみたりしながら試行錯誤したのだがうまくいかず、写真に向いていないのではないかと悶々とした日々を過ごしていた。
 
それが変わったのは、大判カメラを持つようになってからだった。じっくりと考え、大きなすりガラスに映った倒立像を隅々まで眺めてからシャッターを切る。ウジェーヌ・アジェになったような気分で、都市の街角を撮り歩いた。これがずいぶん自分に合っていたようで、一日中夢中になって、カメラを担いで街を歩くようになった。大体一日で、二十枚くらいを撮影した。そのときふと、そもそも「量」とはなにかと考え、二十枚とはいえ、これもまた「量」のひとつなのではないかと思うようになった。そのうち、35mmのカメラを持っても「量」を撮れるようになっていった。それはきっと、視覚をはじめとした様々な写真的感覚が鍛えられたからだろうと思う。

そんな経験を経て、今ではGRを片手に、ただ反応したものを直感的に写すということが自然にできるようになった。そこで得られた植物のかたちや、線香花火の枝分かれした火花の線、点描のように広がる川面の藻の密度に、自分は視覚的な喜びを得ているのだと気が付く。それらのモチーフや現象になぜ惹かれたのかを、写真は教えてくれる。だから、量があればあるほど自分の視覚の質は高まり、ある特定の目的をもった撮影のときにそれが一気に放出される。

 
私にとってGRを持ってハッとしたときに撮るというのは、体力を保つための運動や寝食と同じようなものなのだと思う。自らの感覚に触れ、来るべきなにか、撮るべきなにかに備えるための基礎訓練が、日々のスナップの機能のひとつであり、「量」を撮るということの私なりの意味であると考えている。

もちろん、このようなシリアスな表現に関することとは別に、ただ大切なものごとを記録するための撮影も、GRを持つ時には多くあるけれど。その振り幅もまたGRだな、と思う。

 

大和田良
1978年仙台市生まれ、東京在住。東京工芸大学芸術学部写真学科卒業、同大学院メディアアート専攻修了。2005年、スイスエリゼ美術館による「ReGeneration.50Photographers of Tomorrow」に選出され、以降国内外で作品を多数発表。2011年日本写真協会新人賞受賞。著書に『prism』(2007年/青幻舎)、『五百羅漢』(2020年/天恩山五百羅漢寺)、『宣言下日誌』(2021年/kesa publishing)、『写真制作者のための写真技術の基礎と実践』(2022年/インプレス)、詩人のクリス・モズデルとの共著『Behind the Mask』(2023年/スローガン)等。東京工芸大学芸術学部准教授。
www.ryoohwada.com
https://www.instagram.com

 
 
 

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