【コラム】「移動」と写真/大和田良

2025.07.25 BLOG

どこかへ移動する間、たいてい写真を撮っている。鉄道、車、飛行機など移動手段はさまざまだが、窓の外に広がる景色にレンズを向け続ける。

先日も、GR meet 47の46番目の会場となる松江市を訪れるため、羽田空港から米子空港へと飛んだ。その機内でも、窓の外を眺めながらGRを窓に付け、写真を撮り続けていた。

学生時代のある出来事が、今でも鮮明に記憶に残っている。ある先生が、飛行機の窓から撮影した写真をコダックのスライド映写機で延々と映し出したことがあった。どれほどの時間だっただろうか。それらの写真に劇的な瞬間はなく、映し出されるのは空と雲、そして機体の一部ばかりだった。映写が終わると、先生は一人の学生に「どうだった?正直な気持ちを言ってごらん」と尋ねた。その学生は少し戸惑いながらも、「・・・えーと、退屈だったと思います」と答えた。すると先生は満足げに「そうだろう!私はそれを伝えたかったんだ!」と声を上げ、教室には笑いが起こった。

私はその時、「表現にはこんな形もあるのか」と、理解できるような、できないような、不思議な感覚を覚えた。

その体験は、私の中に小さな種を残した。表現は常に人の興味を引き、面白くなければならないわけではない。むしろ、退屈さや単調さの中にも、確かな力が宿ることがあるのだと、今になって思う。何十年も経った今でも、その「退屈な」スライド映写の記憶が私の中に残っていること自体が、表現としての力強さを物語っているのだろう。

東京に戻った後、これまで飛行機の中で撮った写真を見返してみた。機内で胸ポケットに入れているのはたいていGRなので、機種名で写真をブラウズすると、さまざまな移動の時間に撮影したものがすぐに見つかる。それらを眺めながら、ふと「あのとき先生が言ったように、この写真群も退屈さを表しているのだろうか」と考えた。少なくとも、私は飛行機からの景色を退屈だと思いながら撮っていたわけではない。しかし、集めてみるとやはり雲や空ばかりが写っている。中には印象的な形や光を捉えたものもあるが、全体としては「退屈」と言われても仕方がない写真かもしれない。

移動とは、あくまで「どこかへ向かう」「帰る」ための道中であり、目的そのものではない。そこにはほのかな熱がありながらも、連続的で、決定的な瞬間が訪れることは少ない。だが、だからこそ成立する表現がある。あの先生のスライド映写のように、移動中という主体性の薄い、受動的な風景の移り変わりは、写真というメディアにおいて新たな研究対象となり得るのではないか。とは言っても、それとは関係なく、機内から写真を撮るというのは単純に楽しく、私はただそれを楽しんでいるだけでもあって、まずはそれで十分だという気もする。



 

大和田良
1978年仙台市生まれ、東京在住。東京工芸大学芸術学部写真学科卒業、同大学院メディアアート専攻修了。2005年、スイスエリゼ美術館による「ReGeneration.50Photographers of Tomorrow」に選出され、以降国内外で作品を多数発表。2011年日本写真協会新人賞受賞。著書に『prism』(2007年/青幻舎)、『五百羅漢』(2020年/天恩山五百羅漢寺)、『宣言下日誌』(2021年/kesa publishing)、『写真制作者のための写真技術の基礎と実践』(2022年/インプレス)、詩人のクリス・モズデルとの共著『Behind the Mask』(2023年/スローガン)等。東京工芸大学芸術学部准教授。
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